history
(株)クリーニング春光舎は、昭和35年創業。初代マサ(大正4年1月29日生・平成26年1月6日没享年100歳)が戦時中豆腐店を営なんでおりました。戦時中でしたのでたくさんの方が来店して、豆腐を買い行列ができていたそうです。そこに営業に来ていたクリーニングの配達員に「やる気があるなら、店を作ってやる」と、お気に入りの配達員に作ってあげたのが春光舎の始まりです。気風うが良かったおばあちゃんの言いそうな話です。それから半世紀。皆様にはご迷惑を多々かけながらも、お付き合いをいただきまして心より御礼申し上げます。今後とも末永くお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。 (株)クリーニング春光舎 代表取締役社長 舟田一之
①クリーニング春光舎初代マサ。戦争で夫良雄をなくして以後80年近く、100歳に至るまでずっと独り身で人生をまっとうしました。結婚して戦時中でしたので女手一つで、豆腐店を営みながら、姑さん、2人の子供の世話をして家業の豆腐店を運営していました。営んでいた豆腐店は時代を背景にすごい大繁盛、タンスの引き出しを開けると札束がびっしりと詰まっていたそうです(母の話)ところが、使うほうも半端なく気前がいい!一瞬にして次の日には札束が全てなくなったといっていました。株をかなりやっていて、倒産したためらしいです。そんなおり上に書いたようにひょんな事からクリーニング店をスタート。ところが・・・
頼まれた男性はすぐ辞めてしまって、豆腐店を長男春好に任せて、長女テル子とともに春光舎を営んで行くこととなります。母が18の頃と聞いています。はっきりした年はわかりません。春好、テル子の頭文字を使い命名したのが「春光舎」です。
忙しさも限度を超えて多くの職人を使ったそうです。聞いた話ですと、近辺のクリーニング店の店長さん多数春光舎の仕事をしていたみたいです。そんな中に②達夫がいました。私の父であります。
③売上は順調に伸びていきます。平屋だった店を増築した写真が残されていました。景気が良かったことがわかる事例ですね。私は生まれていないと思います。昭和も40年位?ってことは初めて5年くらいでしょうか?この辺はハッキリするようでしたら、文章を訂正して行こうかと思います。
忙しさも限界を超えていました。今はパークドライ機は使われなくなり、石油系ドライが主流になっていますが、当時パークドライ機1台1000万位のものが出たとき、県内では今もありますフジドライさんの次に、当店が購入したそうです。そのため沢山のクリーニング店がうちにパークを借りに来ていたそうです。
私の記憶ですと、お風呂が増築した一回部分にありました。ワイシャツなどを洗うオープンワッシャー、エリをササラがけする台、ボイラーがお風呂から見えるところにありました。ワイシャツを洗うオープンワシャーが湯気を上げながら回っているのを覚えています。遅くまで仕事をしている姿お見て育ちました。お風呂は暖めるため、アイロンで使う蒸気を使いお風呂に鉄パイプを突っ込んで水を温めていたので、よく火傷していました。
④⑤は達夫が亡くなった近辺の写真だと思います。この頃には職人さんはいませんでした。パートさんが数名手伝ってくれていました。クリーニング店がなくて引く手あまただった時代から、取次店方式のホワイト急便さんが勢いを出している転換期だと思います。当店にかかわったいただいた従業員さんはかなりの数だと思います。ノレン分けといった形で運営している店があります。いまでも母に会いに来てくれる職人さんもいらっしゃいます。いい時代だったんだと思います。
時代は変わりますが、これからも皆様に喜んでいただけるクリーニング春光舎をつなげて行けたらと思います。機械もかなり行き着いた感があります。しみ抜き技術もいまは数段アップしてきました。最新技術を取り入れるのと同時に、積み上げてきた経験を大切にしていきたいと思います。よろしくお願いいたします。